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アトピー性皮膚炎体験記:アレルギーと人生、揺らぐ感情

改めて振り返ってみると、僕は生まれてから現在に至る24年間、アレルギーと闘い続けてきました。この年齢を迎えるまで非常に多くの困難と対峙し、やっとの思いで乗り越えてきました。

福島県 HK(24歳) 

 

 ★みんなと違う小学生★

小学生の頃の僕は、周りのみんなが食べる給食をおいしそうに見ていた。僕には食物アレルギーがあり、給食は牛乳だけを頼み、母に作ってもらったお弁当を毎日食べていた。食事制限はしていたけれど、やはりアトピーの症状はひどかった。

放課後に校庭で遊ぶことが好きだった。ただし、「風が強くて花粉もいっぱい飛んでいるから家にいたほうがいいよ。」、と母に言われ、家でテレビゲームをすることも多々あった。食物のみならず、花粉にも敏感にアレルギー反応を示し、顔が赤い時はだいたい体調が悪かった。風が強いと、花粉だけではなく、校庭の砂や白線の粉が飛ぶため、安易には外出させてはもらえなかった。皮膚にブツブツが出たり、赤くなったりするならまだ良いほうだった。

学校の行事で遠足に出かけ、自然豊かな草原を歩いた。帰りの電車での移動中だったと思うが、植物の花粉などに反応したせいか目が痛くなった。目が真っ赤に充血し、涙や目やにが出て、水中で目を開けた時と同じようなぼんやりとした視力になってしまい、ほとんど見えなかった。帰宅してから眼科に行き、まぶたの裏にゴツゴツした湿疹ができる春季カタルと告げられた。湿疹と眼球とがこすれ合い、眼球の角膜に傷がついてしまったのだ。失明の可能性もある非常に危険な状態であり、しばらく学校を欠席し、眼帯生活を送った。

★卓球に夢中な中学生★

中学生になってもアトピーは治る気配はなかった。室内競技の部活動を探し、卓球と出会った。小学校のクラブ活動の感覚で入部したが、予想以上に練習はハードであった。部活動での発汗、疲労、授業で課される宿題の量も多くなったことにより、徐々にアトピーが悪化し、就寝中にかゆみに襲われては起きて薬を塗る生活になった。卓球大会にも出場したが、卓球のユニフォームに着がえることには毎回ちゅうちょしていた。半ズボンをはいてプレーし、自分のアトピーの足を他人に見られることに抵抗があった。それでも、継続することに意味があると考え、入部した卓球部を退部するつもりはなかった。

ある日、英語の授業で発表会があったが、その日は顔面のアトピー症状が最悪であった。卓球の練習場にエアコンがあり、汗を乾かそうとエアコンの風に直接当たってから悪化した。どうやらエアコンからのカビが顔に付着したようだ。火傷をしたかのようなジュクジュクした顔のまま、僕の発表する番になった。英語の先生に、「大丈夫か?発表できるか?」、と心配された。僕は、顔が引きつって口を動かしにくい状態で発表したことを覚えている。

一回悪くなった症状はなかなか和らがなかった。僕は生まれつき様々な物質にアレルギー反応を強く示してしまう体質で、ランクの強い薬を使わざるを得なかった。軟膏を塗って症状を抑えようとしても、アレルギー反応のほうが強いため、症状はどんどん体全体に広がっていった。肌色の肌はほとんどなくなり、分厚い赤い皮膚に飲み込まれてしまった。日常生活に支障を来たし始め、プレドニゾロンを飲み始めた。皮膚から体液が出続ける症状はだんだんと減少した。

★気付いてしまった高校生★

高校生になっても卓球部に入り、プレドニゾロンは継続して飲んでいた。ただし、ずっと頼り続けることは好ましいことではないため、苦しい時のみ少し多めに飲んで、それ以外は少なめに飲むよう医師に指示されていた。プレドニゾロンの量を少なくするとやはり体調は良くはなかった。春の体育の授業で、桜が満開に咲いている川沿いの道を走った。走り終わった後、皮膚が赤くなってしまったが、あれは花粉の影響が大きかったと思う。

18歳の誕生日を迎えた高校3年生のある日、今までに感じたことのない感覚に陥った。僕は楽しく卓球をして、進路が決められるよう勉強して、平和に高校生活を過ごせればそれで満足だと思っていた。ところが、他人と自分を比較して劣等感を抱え込み、生き方に疑問を抱いたのだ。「何か違う!高校生活の良い思い出って何?俺はアトピーに苦しむ以外何もしてない!」、と僕の脳裏に言葉が浮かんだ。普段から体がだるく、休み時間中は何もしないで机の上で寝ていたり、授業の予習復習をしたりしていた。いつの間にか人と向き合って話すことが苦手で無口になっている自分、他人との交流が希薄である現実に気付いてしまったのだ。アトピーの症状を他人に見られるのを恐怖に感じ、いつも下を見て過ごしていたのかもしれない。卒業が間近になった冬の夕方はすぐに日が暮れ、校舎の廊下は暗く、寒く、心まで凍てついた。

★新たなスタートラインに立った大学生★

人生に対して消極的になっていたが、大学生となったことで心機一転した。大学生になってもアトピーの症状は芳しくはなかったが、自分を変える絶好のチャンスだった。話したことのないクラスメートに自分からあいさつをしてみる、放課後は友人と勉強して、お互いに解けない問題を教え合いながら、単位取得を目指して協力し合った。日々の意識改革によって、高校生の頃よりも断然、人と話せるようになった。特に女子と話せるようになったことは、かつての自分と比べて大きな成長だと思った。

しかし、約20年間の生活スタイルを、一度に変えることはできなかった。僕は健康な人の生き方を知らなかった。外出するとしても病院に行くか、服を探しに服屋に行くことがほとんどで、それ以外は家で音楽を聞いたり、ゲームをしたりしてアトピー悪化の危険性の少ない過ごし方をしてきた。独自の暮らしを貫いてきたため、僕は他人との接点を見つけることができず、勉強以外の共通の話題を出すことが下手だった。つらい日には、友達から勧められて知ったヘビーメタルを聴いた。

大不況の昨今、こんな僕にも就職活動をしなければならない時期が訪れた。だが、こんな症状では勝算はなかった。皮膚科に行ったある日、医師からネオーラルという飲み薬を紹介してもらった。プレドニゾロンを飲み続けていたので、慣れている薬が良かったが、もっと症状を改善したく、ネオーラルの服用に踏み切った。服用初日はとりわけ不安だった。飲んだ瞬間に副作用でアレルギー反応が起きるかもしれないと脅えた。しかし、症状は快方に向かい、皮膚の赤みが引いてきて、何年間も見ることのできなかった肌色の皮膚を確認できた。僕はネオーラルと共に就活に挑んだ。一番怖かったのは、面接中に自分の病気のことをどの程度触れられるか、そして、その内容が面接結果にどのように波及するかであった。何度も挫折を経験したがあきらめることなく続け、内々定を勝ち取った。

★夢に向かう社会人★

そして今、僕は社会人になった。研究開発機関で勤務しながら、技術の習得に励んでいる。仕事のストレスなどで症状が悪化し、何もしたくない日もあるが、年齢と共に徐々に治まり、今年はネオーラルを服用していない。今もなお、哲学的な疑問を抱きながらその答えを探求している。「俺は何のために生き、誰のために存在し、なぜここまで大きなハンディキャップを背負ったのか」と。

僕の夢は、お客様に喜んでいただける、会社が潤う新製品を開発することだ。僕は愚かで何の仕事もできやしないが、愛する会社に貢献することで、自分の存在意義が明確になると信じている。そして、もうひとつ大きな夢がある。それは、何の取り得もなく不器用で醜い自分を受け入れ、病気を理解しようとしてくれる人を探し出すことだ。僕は愛する人を全力で支えられるような人格を有する人間へと成長したい。僕は患者である前に人間であり、男なのだ。僕は今でも病弱な自分自身のことを全否定している。でも、僕を愛してくれる人がそばに寄り添ってくれるなら、自分を生まれて初めて好きになれるかもしれないし、自身の存在価値、生まれてきた意味を見つけられるかもしれないのだ。

 

僕はアレルギーによって身体的に悩まされてきたことはもちろん、大切な時間を失い、人生の楽しみ方を知らず、心に大きな深い傷を負いました。それでも頑張るのは、叶えたい夢を持っているからです。この拙文を読んでくださっているアレルギー友の会の皆様とお会いしてみたいです。アレルギーのことをお互いに笑い飛ばせるようなお友達になりたいです。

病魔に侵されている僕を助けてくださった家族、医療関係者をはじめ、等身大の自分を表現する機会を与えてくださった認定NPO法人アレルギー友の会のスタッフの方々に感謝を申し上げます。誠にありがとうございました。 

 

 

 

 

 

 

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