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アトピー性皮膚炎体験記:アトピーと向き合うために -祖母が教えてくれたことー 

アトピーと向き合うために ―祖母が教えてくれたこと―

高校生のときにアトピー性皮膚炎を発症したAさん。病院での治療を受けるも症状は治まらず、「なぜ自分だけが皆と同じように日々を楽しんだり、笑ったりしてすごせないのだろう」と悩む日々でした。アトピー・引きこもり・祖母の介護の経験をふまえ、自分はどういう性格なのか、どうしたらアトピーが悪化するのかわかってきたのです。

匿名さん(38歳)

 

 朝、目が覚める。下へ降りて、祖母の遺影に目を向ける。祖母の広くて丸い背中、温かくて大きな手…今でも面影が鮮明によみがえる。祖母の介護の年月は、私がアトピーと向き合った年月と重なる。

★なぜ自分だけが、と悩む日々
 

私のアトピーの発症は22年前、高校生の時だった。症状は顔のみの発疹で、かゆくてジクジクした湿疹が顔一面に広がってきたので、皮膚科を受診したところ、アトピー性皮膚炎と診断された。ところがその医師の治療方針が良くなかったのか、外用薬も内服薬も効かない、激しい症状が出てしまった。顔中にただれたように滲出液が出、ほてりと腫れ、かゆみとヒリヒリした痛みで夜も眠れず、かかないように母にベッドに手を縛ってほしいと頼んだほどである。とうとうこの医師の治療に疑問を感じ、知り合いの紹介でほかの病院のアレルギー科を受診、即日入院となり、2カ月間入院することとなった。ステロイド外用薬とビタミン剤の点滴を続け、顔は瞬く間につるつるになった。この入院の間、家の中は大変だったようである。自宅には医師が家庭訪問においでになり、ダニ、ハウスダスト徹底排除の指導を受け、母は半ばノイローゼになるくらい、掃除と洗濯に追われた。
 退院後は、母は引き続き環境整備に気を配り、私はステロイド外用薬を使いながら学校生活を再開した。けれど「なぜ自分だけが皆と同じように日々を楽しんだり、笑ったりして過ごせないんだろう?」と他人と比較し、不平等なことを嘆いていた。

★ステロイドをやめられない
 

大学へ進学し、授業と実技のレッスンで(私は音大でヴァイオリンを専攻していた)、生活は大幅に忙しくなった。時々悪化した時には使っていたステロイド外用薬は、この頃は毎日使わないといられなくなっている。当時プロトピック軟膏はまだ存在しておらず、顔にステロイド外用薬を毎日使うことに疑問を持ちながらも選択肢はなかった。医師にもその不安を訴えたが、あまり明確な回答は得られなかったので、その頃知り合った方にアレルギー友の会をご紹介いただき、相談させていただくと、ていねいに話を聞いてくださり、医師を替えたほうが良いと勧められ、病院を替えることにした。
 新しい医師は、7カ月間顔にステロイドを使っていることを話すと、すぐにやめましょう、とおっしゃった。もうすでに少し副作用が出ている、入院してPUVA療法をしましょう、とのことだった。PUVA療法とは紫外線吸収剤を塗り、強いUV―A波を照射して、単純に言えば日焼けをして皮膚の状態を改善するという治療法である。ステロイド外用薬を断つ代わりにこの治療法で症状を抑えこむという方針であった。退院時には皮膚は日焼けして真っ黒にこそなったが、「やっと顔のステロイドをやめられる!」と思った。これで顔に漫然とステロイド外用薬を使っている後ろめたさとは離れられると思ったのだ。しかし2カ月後、元の肌の色に戻ったとたん、顔の湿疹は再発してしまう。

★引きこもりの日々、そして人の役に立つ
 

また顔の湿疹を抱えたまま、忙しい学生生活を続けるのかという不安、重苦しさと並行して、大学卒業後の自立する道に悩んでいたことも重なり、次第に人と接することが辛くなって、半ば引きこもりの状態になり、2年間大学を休学することとなった。

 医師には、本当に悪化するまでは顔のステロイド外用薬は使ってはいけないと指導されていた。一日中家にいて、人生をさぼっている苦さを感じながらも、アトピーがいつ悪化するのかということと、これから先の自分の生き方について考えてばかりいる毎日だった。顔の症状も、カビやホコリに近づけば、すぐに悪化し、顔中ジクジクしてしまう、非常に不安定な状態が続いていた。
 そんな中、近くに住んでいた祖母の認知症が進み、祖父も体調を崩して、2人とも介護を必要とする状態になり、こちらに同居することとなる。
 毎日の家事に加え、祖父母2人の介護は、到底母だけではまかないきれない。一日中家にいた私が、家事と介護の手伝いをするようになったのも自然な流れであった。自分も少しばかりでも人の役に立っている。これは私にとって大きな出来事であった。自分の「役割」を見出して、アトピーの症状が落ち着いてきたのである。
 2年間の休学を経て、日常生活は送れる程度の症状になり、ともかく卒業だけはしたい、という気持ちで復学することとなった。
 その頃、今までの医師が転勤され、新しい医師に替わった。

★再び激しく悪化

 同時期に祖父が闘病の末、亡くなった。亡くなる直前の祖父の看護、進行する祖母の認知症、さらに自分の大学への復学で毎日が緊張を強いられていた。祖父が亡くなったことで何かが音をたてて切れてしまった。今まで落ち着いていたアトピーが文字通り「爆発」したのである。顔は再びドロドロになり、腫れ上がって目も口も開かなくなった。私の症状の特徴は、急激に悪化して滲出液がたえず流れるのである。その頃、メディアではステロイド批判の嵐が吹いていた。私は過去の経験もあり、ステロイドは絶対に使いたくない、と新しい医師に訴えた。どこから見てもステロイド外用薬を使わなければ治らないような、ひどい症状の私を認識されながらも、医師はていねいに私の話を聞いてくださり、「じゃあ使わなくていいよ」とお答えになった。その代わり、皮膚の構造を詳しく教えてくださったり、ステロイド外用薬も使い方次第で依存的にならずにすむ方法など、さまざまなことをお話ししてくださり、数回通院するうちに、次第にステロイド外用薬を使ってみようという気持ちになった。
 ステロイド外用薬を使い始めると、みるみるうちに肌は元通りになる。毎日ヒリヒリしたひどい肌で外へ出れば、まわりから奇異な目で見られていたことを思うと、健康な肌になるということは、何と安心した、解放された気持ちになれるのだろうということに気がついた。その頃、やっとプロトピック軟膏が登場し、顔の症状の対処法は数段にらくになっていった。

★祖母の介護に専念
 

大学を何とか卒業し、細々とヴァイオリンを教えながら、一日のほとんどを祖母と過ごす日々となった。この介護の日々で勉強になったことがたくさんある。
 たとえば、医師、訪問看護師とのコミュニケーション法である。母は物言えぬ祖母に代わって、祖母の体の状態、疑問、不安、今後の方針などを、医師、看護師がおいでになる前に準備しておいて、明確に、手短に話をする。「後で不安が残らないように、小さなことでもすべて伺うのよ」と母はよく言っていた。この方法は私自身が診察を受ける際、非常に参考になった。
 もう1つはヘルパーさんとの関係である。わが家では祖母の身体をお任せするのだからと、ヘルパーさんとまず信頼関係を結ぶことに重点をおいていた。ここでも、祖母のことを深く理解していただくために、よく会話をして「こうしたい」「こうしてほしい」ということを伝えていた。次第に、医師、訪問看護師、ヘルパーさんとはがっちりとした信頼関係ができあがり、祖母を守る1つのチームのようになっていった。

★対人関係のストレスを乗り越えてわかったこと
 

十数年の介護の後、祖母は98歳で静かにこの世を去った。大好きな祖母が傍らから消えてしまったショックもあり、心身ともにバランスを崩し、アトピーは悪化した。今度は背中一面に痒疹(固いしこりのある非常にかゆい湿疹)ができ、ステロイド内服薬を使ったくらいである。私を一目ごらんになってすべてを理解された医師は、常に心身の状態に気を配ってくださり、アトピーに関しては薬の使い方(部位、回数、塗る量など)を詳しくご助言くださった。7~8年の歳月をかけ、症状は少しずつ改善し、現在は1~2カ月に1回の通院で、きれいな肌を保っている。
 アトピー、引きこもり、介護の経験をふまえ、自分はどういう性格なのか、どうしたらアトピーが悪化するのかがわかるようになってきた。そしていちばんの課題(私にとってはアトピー悪化の最大要因)であった人間関係の作り方も、医師やヘルパーさんとのかかわりの中で身についてきたように思える。人を信じて強いつながりを求める。それは失敗するかもしれないし、うまくいくかもしれない。でも試してみなければわからない。そんなふうに考えられるようになって、対人関係のストレスも減り、アトピーの状態を穏やかにしてくれていると思う。
 病気というものは煩わしいが、その山を乗り越えていくことこそ、生きる意味なのだと考えるようになった。陰になって支えてくれた家族に、大切な機会を与えてくれたアトピーに、そして祖母に、感謝している。
 

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