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ぜんそく体験談:生物学的製剤(ゾレア)に出会うまで

【生物学的製剤(ゾレア)に出会うまで】

埼玉県 M .F.(31歳)

 

私は1歳になる前に喘息と診断され、おそらく当時からそれなりに重症だったのだが、最近になるまで重症と自覚することなく約30年過ごしてきた。

幼稚園頃からのことは、なんとなく記憶に残っている。友達の誕生日会に遊びに行ったらネコがいて、アレルギー症状が酷くなりそのまま病院に行く羽目になったり、インフルエンザがきっかけで、長く入院したり。お泊まり保育でも発作を起こし、楽しみにしていたプール遊びに参加できなかった。病院通いの日々で、点滴でも注射でも全く泣かず、薬を嫌がることもないすっかり病院慣れした子供だった。

 

★小学校時代…

夜中や明け方の発作で、ソファーでうとうとしながら朝を迎え、遅れて学校に向かったことも数知れない。

10歳の誕生日の直前には重篤な発作を経験し、小児慢性特定疾患の認定を受けた。この頃から吸入ステロイドを使うようになったものの、度々コントロール不良となり、経口ステロイドや点滴に頼らざるを得なかった。

幼稚園の頃から喘息に良いと言われて水泳を続けており、高学年になるとタイムを競うコースに在籍していたものの、長く泳ぐと苦しくなってしまい、途中で休ませてもらっていた。

さらにつらかったのは、脊椎の病気のため装具をつけていたのだが、装具で圧迫されているところに喘息発作が重なると苦しさが増すことだった。どうにもならず、保健室で大泣きしたこともあった。

 

★中学校時代…

中学に上がると通学時間が長くなったためか、学校に着く頃にすでに発作が起こっているという状態が続き、朝の時間を保健室で過ごした時期もあった。

中2の時には登山合宿があったのだが、かなり喘息が悪化していたこともあり、主治医とも相談したが登山ができる状態ではなかった。参加を諦めるしかないと思っていたのだが、登山の間は近くの湿地を散策し、みんなが山頂に着く頃に合わせてリフトで登るのはどうかと学校から提案してもらった。キャンプファイヤーは建物の中から見て楽しみ、夜は養護教諭の先生の部屋で眠った。山頂での集合写真にも一緒に写ることができ、とても嬉しかったことを覚えている。

 

★高校時代…

中高一貫校でそのまま進学したので環境の変化はほとんどなかった。喘息の状態はあまり変わらず、薬品を使う化学実験や寒い時期の体育では毎回のように発作を起こしており、保健室で落ち着くまで休んでから次の授業に向かうことが日常茶飯事だった。

修学旅行で行った沖縄では、気温差や飛行機の気圧のせいもあってか、夕食前に発作を起こしてしまった。ようやく落ち着いた頃には食事時間は終わっており、誰もいなくなった大広間の隅で、発作が収まるまで付き添ってくれた先生たちと食事をした。思い出すと情けない気持ちになる。

しかし、常に喘息に悩まされながらも、中高時代という大切な時期に周りの友人や先生の理解があったので、心から感謝している。

 

★大学時代…

理学部に進学した。実験などの授業で忙しい日々だったが、今振り返ってみれば、この頃はいくらか落ち着いていたと思う。サークルやバイトなどもそこそこに楽しむことができた。所属していた研究室の教授も軽い喘息持ちで、各部屋には空気清浄機があったり、実験室の清掃分担で燻煙材などを使うことは免除してもらうなど、理解ある研究室生活だったことも幸運だった。

それでも大学4年時の教育実習では、梅雨という悪条件に疲労が重なって、一気にコントロール不良となってしまった。喘鳴と咳が続き、ステロイド点滴でなんとか乗り切ったのだった。(母校での実習であり、養護教諭の先生を含め、私の喘息のことを知る先生が多かったのは幸いだった。)

 

★社会人になって…

生まれ育った地を離れて、他県で教員となった。

地元では、総合病院の小児科の先生にずっとお世話になっていたので、引っ越しに伴ってはじめて主治医が変わることになった。今までの病歴をまとめたものを持参して、近所の呼吸器内科のクリニックで治療を続けることになった。

ところが、春は花粉、夏は冷房、秋は台風、冬は冷たい空気…と、相変わらず年間を通じて発作を繰り返していた。しかし、息苦しさなどの症状にはすっかり身体が慣れてしまって、多少の症状があっても動けてしまう。けれども、そこに疲れや風邪などが加わると、急激に悪化する状態になっていた。社会人になるとそうそう休むこともできず、予約外受診を繰り返しながら仕事を続け、さらに悪化することもあった。

修学旅行の引率で秋の日光に行った時にも発作で一睡もできず、翌日は疲労困憊だった。そのような状態になる度に「入院を避けるためには、とりあえずステロイドが必要」と言われ、点滴や経口ステロイドなどで騙し騙し生活していたが、なんとか入院はせずにすんでいたこともあり、仕方ないものだと思っていた。

 

★変わるきっかけ

神経の病気のために整形外科で手術を受けることになった。整形外科の主治医と麻酔科の先生が喘息のことを気にかけてくださり、挿管での発作を避けるために、全身麻酔から伝達麻酔に変更となった。ところが、鎮静剤で眠っていた私は記憶にないのだが、手術室の寒い室温せいか、手術が始まる前からすでに発作を起こしていたと聞かされた。処置を受けてそのまま手術は無事に終えられたものの、術後も手術箇所の痛みより喘息に苦しんだ。術後に「治療(STEP4)をしていても喘息が今の状態というのは良くない。僕もそんな状態で仕事を続けて、ある時ひどい発作を起こしたんだよ。」というお話があった。実は整形外科の主治医ご自身が、ゾレアを使って治療している重症喘息の患者でもあったのだった。「喘息は死ぬこともあるんだから、しっかり治療をしたほうがいい。」とご自身の喘息の先生を紹介してくださった。

 

こうしてアレルギー治療で有名な大学病院の専門の先生に診ていただくことになった。検査などを済ませると「正真正銘の重症喘息」と言われ、すぐに生物学的製剤(ゾレア)が開始となった。今までの治療が100%間違っていたわけではないが、ベストな治療ではなかった…とのこと。地元の小児科は「良い先生」としては有名だったが、それなりに酷い症状を成人まで持ち越している時点で、セカンドオピニオンを考えるべきだったのかもしれない。引っ越し先も呼吸器内科であったが、生物学的製剤が話題になることはなくステロイド頼みだった。

 

★生物学的製剤の治療を始めてから…

新しい治療と出会い、あきらかに調子の良い日は増えて、「苦しくない状態」を自覚することができるようになった。今まで仕方がない、当たり前だと思っていた症状が普通ではなかったことにようやく気づいた。毎月の注射を全く負担に感じないわけではないが、QOLに関してそれを上回る効果を感じている。

もしも手の手術を受けていなかったら…?もしも整形外科の主治医が重症喘息でなかったら…?

これまでのことを振り返ると、もっと早くにできることがあったのではないかと悔やまれるが、過去を悔やんでも仕方ない。「良くなっていますね!でも、もっと良くなるはずです!」という主治医の先生の言葉を励みに、今後はよりよい治療に先生と二人三脚で取り組んでいきたい。患者自身が正しい情報を自ら得ていくことの大切さを改めて感じている。

 

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