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アトピー性皮膚炎体験記:第二の人生はオーストラリアで

病院に入院中に30歳の誕生日を迎えたJさん。「顔が爆発する」と思うほど顔から汁が出て、痒さと痛さからショック症状になり起き上がれないという悪化を経験しました。その後はステロイド等でコントロールすることができ、薬を使わなくてもよい状態に。そしてオーストラリア人のご主人と結婚し、ご主人が「かわいいです」と繰り返し言ってくれることで傷ついてきた心も癒されているとのこと。ひどかったアトピー性皮膚炎を乗り越えて幸せをつかんだ方の体験談は希望の光となることと思います。

JMさん(49歳)

 

30歳の誕生日を迎えたのは、PUVA治療のため病院の中でした。20代後半は、繰り返しひどくなるアトピーの症状を抑えるのと自分の理想とする生活の実現という二つの壁の前でもがいて、いつも何かと戦っている感じでした。そして「失われた20代」を取り戻すべく仕事に遊びに飛び回った30代を経て、今はメルボルン郊外でオーストラリア人の夫と二人、のんびり暮らしています。皮膚状態に一喜一憂することなく、ゆったりした気分で毎日過ごしていると、生まれ変わったような気分にさえなります。

小さい頃からアレルギー

記憶のある限り、体の痒さはいつもついて回っていました。他のアレルギー疾患は小児喘息と慢性肥厚性鼻炎。8歳から喘息が起こるようになり、体育も、音楽の授業で笛を吹くこともドクターストップだったところに、追い打ちをかけるように12歳からアトピーも悪化、中学以降は毎晩体中にステロイド剤を塗るようになりました。

16歳の夏を境に喘息はぱったりとやんだもののアトピーは毎晩布団が粉だらけになるような状態が続き、ステロイド剤は高校3年で北欧に留学していた1年間を除きずっと使い続けていました。就職後、ストレスからか化粧が出来ないほど悪化した時にかかった医者に顔へのステロイド剤の使用を止められてから、顔が赤く腫れあがり、額のしわに沿って裂けたまま傷口がふさがらない、耳の付け根がただれて仕事の電話が取れない状態になり、親の言うまま仕事を辞めて、実家に戻りました。

顔を人目にさらすのが辛い

実家に戻ってステロイド剤を使いながら小康を得たら、まだ若かったし、田舎にいるよりもう一度東京へと思い、1年後には東京の大学に編入。大学院への進学を希望していた4年生の春、「顔が爆発」したのです。それまでの「ひどい」と言う症状が軽く思える程、この時の悪化は激しいものでした。顔から汁が出て止まらない。痒さと痛さからショック状態になり起き上がれない。院進学をやめ、塾講師をしながらいつでも通院できる生活に切り替えました。

仕事へは、たとえ顔から汁が出ようと、亜鉛華軟膏で顔を真っ白に処置してでも通っていました。そんな私に通りすがりの人は冷たかった。男子小学生のグループに、「怪物」とはやされながら道をふさがれたり、小さな子に地下鉄の中で「あの女の人の顔、汚い」と指さされたり、信号待ちで年配の男性に、「おじさんの友人も病気で顔が崩れたけど頑張っているよ」と声を掛けられたり。一人暮らしの部屋で「悔しい、悔しい」と何度泣いたことでしょう。でも、その翌日にはまた処置をし、鏡の自分に「今日は昨日より少しは赤みが引いているよ」と声をかけ、仕事に向かいました。私は自分の力で生活している、塾の生徒は慕ってくれる、好きな勉強も続けている、と自分を鼓舞しても体調は一向に良くならず、IgE値を抑えようと週1回半年間注射に通った後の再検査で逆に5000以上上がってしまった私に、主治医は入院でのPUVA療法を勧めたのです。

大学病院に行き、PUVA療法の説明を受けた時には「固くなって薬の浸透しなくなった肌を一度全部剥いで、その下のいい肌をうまくコントロールする」のだろう、と理解しました。一応納得し「試しに」顔だけ「軽く」紫外線照射したところ、先生の想像以上に弱っていた肌はやけどのように腫れ上がり、激しい痛みを抑えて出勤した塾でも私の顔を見たとたん、皆絶句してしまいました。次の診察日に「こんな治療法嫌です、やめます」と泣いて訴えましたが、「でも肌の状態は良くなっているよ」と励まされ、入院治療を始めることになったのです。

入院すると、紫外線の照射強度を詳しくテストしてから治療が始まりました。一日おきの紫外線照射の前は、医師の前でショーツ以外裸になってオクソラレン(感光剤)を塗ってもらい、それからサングラスをかけてロケットのような紫外線照射のカプセルに入ります。肌の弱いところは何か所か焼き過ぎて水膨れになり、鎮痛剤を要求しすぎて医師に怒られたりしましたが、怒られてでも痛みを抑えて乗り切らなくては、この治療から逃げては治らないんだから、と腹をくくってメニューをこなしていきました。

PUVA療法を始めて3週目、中学時代から毎晩体中に塗っていたステロイド剤の使用を止めました。結局、ひどかった顔の調子を整えるため6週間入院したのですが、回診の教授が焦ってビタミンCの処方を確認するほど色が黒くなったことを除いては、入院前の状態が想像できない程良くなって退院できました。

退院後はまた悪化すると言われていましたが、1年半ほどで抗アレルギー剤や抗ヒスタミン剤の内服も不要になりました。なにより、体中ひっかき傷だらけの時は年に1、2回の割合で蜂窩織炎や関節炎を起こし、風邪も引きやすく体力もなかったのに、全くそんなことがなくなったのは驚きでした。塾講師を辞め会社勤めを始めたら終電帰りや会社で徹夜もありましたが、アトピーが悪化するわけでもなく、少しあった顔の赤みもどんどん薄らいでいきました。

この頃、鼻の粘膜をレーザーで焼き、鼻炎ともさよならすることができました。学生時代に皮膚も鼻もこの状態ならもっと勉強に集中できたのに、と残念に思うほど、生きるのが楽になっていました。

顔の症状のコントロール

 家庭の事情で実家に帰ることが決まった頃、プロトピックが処方されるようになりました。長い間顔のひどい症状のコントロールに苦労していた私は「もっと早く認可されていればよかったのに」と期待してすぐ処方してもらいましたが、ちょっとかゆい程度のところに塗っただけでひりひりする熱感と刺すような痛みにすぐギブアップしました。その後、実家住まいになると父が「仕事に行くのに化粧をしないだなんて」と怒るので、「これが田舎の普通の人の見方なら仕方ない」とフルメイクを始め、その刺激で皮膚炎が悪化し、それでも仕事に行かなければならない時は、痛みさえこらえれば肌の赤みがきれいに引いて治ったように見えるプロトピックは便利でした。3年が過ぎるころにはそこまで悪化することも、初対面の人に「あなたアトピーですね」と言われることもなくなって、毎回メンバーの変わる料理教室にも躊躇せずに行けるようになりました。

オーストラリアとの縁

 チームメンバーのほとんどが外国人という仕事場で、体調を崩す暇もない残業の嵐のような2年を過ごした後また東京に戻ることにし、チームメンバーに「東京の観光案内なら任せて」と伝えておいたら、本当に連絡してきたオーストラリア人が一人。帰任後も「日本大好き」と旅行に来るので毎回旅の手配をしていました。そのうち遠距離恋愛の仲になり、私の東京住まいも5年を過ぎて「次のマンションの更新、どうしようかな」と言ったら「しばらくオーストラリアでゆっくりすれば?それからどうするか考えれば?」と提案されました。日本と比べるととても空気が乾燥しているというので、皮膚炎が悪化したらすぐ帰国しよう、などとほんの気分転換程度に思って行ったのですが、半年の間アトピーがひどくなることはなく、彼との生活も楽しいばかりでプロポーズされ、結婚してオーストラリアに移住することに決めました。

完治はしていないけれど

 婚約者ビザ取得のために帰国し日本で1年過ごす間に、一時期ひどく皮膚炎が悪化し、手足の汗疱にも悩まされました。その際にかかった医者に、顔のアトピーがひどいからと化粧品・シャンプー・歯磨き粉のパッチテストを勧められ、さらに紫外線によって悪化するかも同時に調べました。結果、化粧品と紫外線の組み合わせで肌状態が悪化することはなく、シャンプー・歯磨き粉・液体洗顔フォームによりかぶれることが分かりました。それ以来固形石鹸以外で泡立つものはすべて使用をやめていますが、歯科医ではきれいに磨けていると言われるし、何より顔の肌状態が安定するようになったので、もう昔の生活には戻れません。アトピー歴が長いと皮膚のことは自分が一番よくわかっていると思いがちですが、機会があれば負担の少ない範囲でテストや新しい治療法を試してみるのもいいのかも、と思います。

あっという間に移住してきてから2年が過ぎました。特に皮膚科医にかかる必要性も感じず、かゆいなと思ったら夫の皮膚トラブルに処方されたステロイド剤をちょっと拝借、程度で治まっていました。先日、足を怪我して初めて医者に行き(オーストラリアでは総合診療医と呼ばれる、風邪から骨折まで何でも診てくれる医者に行き、必要であれば専門医を紹介してもらいます)、そこで問診を受けてアトピーのことを説明し肌も見せたところ、それでは念のため、と処方してくれたのがアリストコート軟膏0.02%という弱めのステロイド外用剤。それが、なんと100グラムチューブを2本です!お徳用の歯磨き粉かと見まがうほどの大きさに、日本との違いを感じました。こんな大雑把な環境にどっぷり浸かって快適な自分にも驚きます。大雑把と言えば響きがよくありませんが、オーストラリアでは誰も小さなことにこだわりません。また、移民の国なので多様性を尊重しようと教育を受けるため、肌の色に言及する人もいません。私の顔は薄くファンデーションを塗ったくらいでは、色素沈着があちこちにあることはすぐ分かりますが、誰にも何も言われたことがないのです。この「何も言われない」快適さは、何物にも代えがたいです。若い頃に「汚い」と言われ続けてボコボコにへこんだ、穴あきチーズのような自己評価を、夫は拙い日本語で「かわいいです」と繰り返し言って穴を埋めて、さらにまあるく膨らませてくれました。こんな夫に寄り添えることに感謝しながら、どこまでも青く抜けるような空を見上げつつ、のほほんと生きていくつもりです。

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