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ぜんそく体験記:50年にわたるぜんそく闘病記

 子供のころから、気管支喘息の闘病を続けてこられたS.I様の体験談です。
東京都 S.I(54歳)


(1)3歳で喘息を発症

「人間が息をしない生き物ならいいのに。」

いつも子供の頃に考えました。「息さえしなければ、私も周りのみんなと同じ人間なのに。」

私と喘息との付き合いはもう半世紀になります。物心ついたときから、いつも息苦しい生活でした。妹たちと一緒に外遊びをしても、姉の私はすぐに苦しくなって、部屋の片隅で安静状態。これが子供の頃の構図でした。

(2)入退院の繰り返し~両親は死を覚悟~

喘息発作はいつも夜半に起きました。時間外に近所の小児科の扉を母が無我夢中でノックします。灯がつけば、何度も頭を下げ治療を受けました。灯がつかなければ、一晩中母が背中をさすって、耐え忍び、朝を迎えました。苦しさに耐え切れなくなると、母が私を負ぶって外を歩き回ったこともありました。

私のアレルゲンは、ダニ、埃、ブタクサ、牛乳、卵等でした。小学生の時、減感作療法を受けましたが、その甲斐なく、状態は悪化しました。小2の時、当時祖父の勤務先だった大学病院に入院しました。強いステロイドの治療を受け、一時は回復したものの、薬の副作用で夜尿症を繰り返すようになりました。状態は良くならず、両親は喘息に良いと聞けば、何でも取り入れ、怪しい漢方薬に逆に発作が増悪した経験もありました。発作の苦しみと戦った日々は今も忘れることができません。限界まで来るとお守りの中身を小さく丸めて飲み込んだことだってあります。まさしく「神頼み」です。

小5のとき、父の勤務先系列の病院に転院しました。夜中の発作でも、急患で診てもらえるようになりました。当時自宅に車はなく、夜中発作が出ると、割増料金のタクシーで1時間以上かけて五反田まで向かいました。苦しさの中で、家族への負担が気にかかりました。

これまでで一番重篤な発作を起こしたのも小5の頃でした。酸素テントの中で息が絶え窒息状態となりました。血圧が下がり、両親は私の死を覚悟したそうです。複数の医師による懸命の処置により一命を取り留めました。病院と家のどちらが自分の居場所かわからなくなりました。学校は殆ど行っていません。小児病棟では、友達もできました。この五反田の病院は当時人気だったドラマ「赤いシリーズ」の舞台でした。同室の泰子ちゃんと病室を抜け出し、夜中の撮影現場をこっそり目にしたことは、苦しさの中での楽しい思い出です。泰子ちゃんはその後天国に旅立ちました。自分は泰子ちゃんの分まで頑張らなくちゃいけないと思いました。

(3)ステロイド吸入薬の登場~海外旅行も楽しめるように~

運動するとすぐに苦しくなり、体育の成績はいつも「1」。頑張れることは勉強しかありませんでした。高校生になると、発作は多少落ち着いてきましたが、それでもまだ入院もあり、呼吸器科病棟に移りました。英語が好きだったので、短大に進み、大手町の商社に就職。その前後の頃だったか、ステロイドの吸入薬が登場し、この恩恵により、発作の回数がぐんと減り、救急で病院にかかることはなくなり、普通の人の生活に近付きました。社会人スキークラブに入り、スキーにのめり込みました。今まで運動が出来なかった反動です。海外旅行も楽しめるようになり、泰子ちゃんの分まで満喫しました。今振り返るとこの頃が一番元気で楽しんでいたと思います。

一児の母になり、行政での相談業務の資格を取得し、仕事との両立に超多忙な日々を過ごしていました。喘息は更に回復し、五反田への通院は4か月に1回程度、低用量のステロイド吸入を続けてはいましたが、経過は良好、喘息であることを忘れかけていました。

(4)再び闇の中へ~見えない病との戦い~

40歳を過ぎた頃から、風邪でも喘息でもないのに、痰がゴロゴロからみ頻繁に咳が出るようになりました。それでも喘息の息苦しさがないので、年齢のせいにしていました。先生からは、ステロイド吸入薬を増やすことを提案されました。息苦しくないので抵抗がありましたが、結局徐々に高容量のステロイド吸入をするようになりました。それでも状態は悪化しました。いつも喘鳴がするので、受診時に喘息発作と捉えられ、その場で点滴となったこともありました。息苦しさが全くないので、私自身は何かが違うと、疑問が拭えませんでした。その後も、原因不明の発熱や肺炎を繰り返し、状態は悪化の一途でした。気付けば体重は10㎏も減り、体形は骨と皮でした。CTでは肺全体に炎症が広がっていましたが、原因不明のため、治療法はなく、成す術がありませんでした。

不安でいっぱいだった時、長年お世話になった先生から突然の退職を告げられました。不安以外の何物でもありませんでした。自宅により近いアレルギー専門の病院を紹介され、転院となりました。そこでは、「非結核性抗酸菌症」の疑いを指摘され、初めて聞く病名に更に不安が募りました。しかし、痰の検査をいくら繰り返しても、原因の特定には至らず、そのうちに、喘息発作も出るようになり、あっという間に過去の自分に戻りました。痩せた身体に原因不明の症状、混沌とした日々が続きました。

悪化した喘息の治療のため、抗IgE抗体(ゾレア)の注射を受けることになり、1年ほど続けました。喘息は驚くほど改善したものの、咳と痰は悪化するばかり。行き詰り絶望感に駆られていた折、思いがけず、一筋の光が差し込みました。「アレルギー友の会」との出会いです。緊張して受話器を取り、勇気をもって悩みを打ち明けました。友の会のスタッフの方々は私の状況を親身に受け止めてくださいました。話の通じるスタッフの方々にどれ程救われたことか。そして、経験豊富な今の担当医との出会いに繋がりました。あらゆる方面から病状を検証し、様々な検査を受けました。詳細は書ききれませんが、先生のご経験や見識の深さに、前向きな気持ちが芽生えてきました。先生の紹介で、肺専門の病院での外科的肺生検を受けました。結果は破壊性びまん性気管支炎との診断でした。原因ははっきりわかりませんが、自分の免疫が自分の肺を攻撃して壊していくらしいのです。疾患名はなく、現時点では治療法も確立されていないそうですが、検査を受けた病院でもスペシャリストの先生に診ていただき、ステロイドの点滴による治療を数回受けました。

(5)再起した今~10年ぶりに回復~

それから数か月、10年ぶりに元気な日常が戻ってきました。薬の効果は半年から1年程度だそうですが、久しぶりに咳と痰のない毎日を過ごしています。担当医の先生からのアドバイスで、ウォーキングやストレッチを日課にし、食事は玄米食、身体を冷やさないよう心掛けています。今身体の変化を実感しています。現在はICS/LAMA/LABAの3成分配合のテリルジーという新薬の吸入を使い、喘息の方もまずまずコントロールできています。

重篤な喘息を経験した自分は他の病気にはならないだろうという根拠のない過信がありました。10年前、日頃と違う症状だと感じた時点でもっと早く担当医の先生に積極的に相談していればよかったと振り返っています。

これからの自分がどうなっていくのか、不安は続きます。それでも「今日も1日無事息ができた」そう思えた日は安堵します。「息をすること」は子供の頃から私にとって特別なことなのです。

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