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喘息・アトピー体験記:喘息とアトピーが私の人生に与えた影響

 子供のころから気管支喘息とアトピー性皮膚炎の双方を患い、闘病を続けてこられた佐藤様の体験談です。

佐藤一郎(東京都) 

 

私は3兄弟の長男で、東京都大田区生まれで、気管支喘息とアトピー性皮膚炎を基礎疾患として抱えております。

 

【1】幼少期

 1970年台前半、幼少期は、東京都文京区湯島にあるアレルギーセンターに母に連れられて1時間以上かけて通院して太い注射を臀部にしても、全快することはありませんでした。

 かれこれ40年以上前のはなしです。アトピーについての情報はほとんどなく、インターネットなんてないため情報を簡単に入手することもできず、長引く単なるかゆみのある発疹ぐらいの認識で正確な知識は不足していました。このような環境にあって、頼れるのは病院だけで処方される薬を塗ってかゆみを抑えるといった状況でした。患部は顔、耳たぶのつけね、肘、膝の裏でした。

 父は転勤族で、私が小学1年生時に東京から札幌に赴任し、小学5年生まで札幌に住んでいました。東京での体調と、札幌の体調を比較すると、冬の寒さがあるとはいえ、やはり空気のよい札幌の方が、体調がよかったと記憶しております。

 

【2】少年期

 気管支喘息は、中学から高校の6年間はアトピーよりも喘息の発作に苦しめられました寒くなって発作、雨が降りそうになると発作で、受験勉強や通学に影響がありました。高校生活を思い返すと喘息のひどいときには、アトピーのかゆみも和らぎ、喘息の発作がないときにアトピーのかゆみがひどい、という状況で、日常的には、病院で処方される薬でかゆみを抑えている状況が続きました。

 咳がひどくて寝られないので、あえて起きて受験勉強することもしていました。また、取得単位を気にしながら出席しなければならない日はせき込みながら、あるときは意識がもうろうとしながらも通学路である坂を苦しみながら途中で休み休みながら、なんとか登校するなどということをしながら、無事に取得すべき単位もとれ、無事に卒業できました。

 また、麻布高校は高校3年次は水曜日にしか出席を取らない、中間試験と期末試験を平均して45点取れば赤点にならないといった特別な制度があったので、水曜日にだけ登校する、中間試験で100点取れた科目は、発作が起こった期末試験時には、あえて欠席するというアクロバティックな高校生活を送ったことを思い出します。

 共通1次試験直前の1986年1月上旬にも、喘息発作が起き、試験前の追込み勉強もままならない状況でした。

 東京で弟と二人で生活して、発作がでれば起き上がれない状況下で受験勉強をしている息子の状況を見かねて、とうとう両親は札幌に引き取り、浪人生活をさせました。札幌の1年間(1986.4-87.3)では、さしたる発作が起こった記憶もありません。集中して受験勉強をすることができましたので、87年3月には東京大学文科三類に合格しました。

 現時点で振返ると、畳の部屋に掃除もせずに直接布団を敷いて寝たことやこたつで寝ているという生活習慣が、ハウスダストを無自覚に体内に過剰吸引することになり、体調に悪影響を及ぼしたものと思います。私が読者の皆様と共有したいのは、ぬいぐるみ、布団、クッション、ソファといったダニがつきやすい素材でできたものについて、よく洗い、掃除しなさいということはよく助言されますが、手数を必ずしも良く実行できるものではありません。布団でも数年したら思い切って廃棄することが大事です。薬の値段を考えれば、一般的な機能ものであれば、新品の布団や衣類の価格は安いはずです。進学後、喘息は軽快し、大学生活は大過なく過ごし、卒業論文を書き上げ、NTTデータから内定をもらいました。

 しかし、1991年12月の温泉療法のアトピービジネス日本オムバスとの出会いが人生を崩壊させたといってよいでしょう。

 1992年3月に卒業証書を何とか受け取るものの、卒業どころではない体調の悪さでNTTデータの内定を辞退しました。(次号に続く)

 

【3】暗転、アトピー・ビジネス禍=脱ステロイド期へ

 温泉療法のアトピービジネスとそれを取材したテレビ朝日によるステロイド禍報道及び不良眼科医のマインドコントロールのもと、脱ステロイドの生活を1年ほど続けることとなりました。卒業した年、1992年中に、両眼の調子は徐々に悪くなっていました。まずはアトピー性の白内障の症状が出てきました。次に同年の6月には今思えば網膜剥離が始まっていました。視野が少しづつ狭まっていきました。はじめは視野にシャボン玉が現れます。網膜が浮き上がった状態です。その後、まるで満月が欠けて下弦の月に、そして三日月の月になっていき、黒い部分がはっきりと視野に現れます。これが新月になると完全に網膜がはがれ失明です。自分の場合、はがれ始めたところが、網膜の下部だったために、急速に症状が悪化することがなかったのでしょう。もし上からはがれていたら、おそらく早期に失明し、自暴自棄になって、自死していたことでしょう。

 ところで、皆さんはそんなに症状がひどいのに医療機関を受診しなかったのか疑問に思うことでしょう。そこがマインドコントロールの怖いところです。

 不良眼科医にきいても、要領を得ない回答、たとえばアトピーの悪化によるものとの説明でした。網膜剥離や緑内障の可能性について、不安でしたのに明確な回答もなく、書状がひどくなった受診最後の時は、検眼すらしませんでした。

 眼圧が高くなり異常を感じる直前、母が池田勇人のこと難病、落葉状天疱瘡になっても、仕事に戻り、やがて首相になる人物のことを話してくれて、私を勇気づけてくれたことを思い出します。

 1993年2月4日、夕方異常を感じ、急患で東京都品川区の昭和大学病院に入院します。

 そこで、下された診断は眼圧が高く、緑内障の疑いありと両眼の網膜剥離でした。

 そこで約40日間眼圧を下げる措置や白内障・網膜剥離の入院及び手術をしましたが、一回で治るはずもありませんでした。手術を行うためには、顔の炎症を止めるために、昭和大学眼科では、大量のプレドニンを大量に内服しました。ムーンフェイスになり、断続的に両眼の手術やレーザーの照射を行い、ようやく網膜が安定しました。手術の回数は両眼で10回を数えました。

 アトピービジネスに250万円、両眼手術入院に300万円ほどの出費となり、また、就職も今でいうブラック企業に就職せざるを得ませんでした。

 また、97年には、義理の伯父の勧めで、漢方薬でアトピーが軽快するのではないかということで中国瀋陽にある中国医科大学まで行きましたが私、父、そして義伯父3人分の渡航費や医療費で84万円ほど使いましたが、まったく効果がありませんでした。

 2000年半ばまでは東京大学病院にかかっていましたが、アトピーの症状改善は見られずついには右眼に恐れていた緑内障が発症してしまいました。

 その後10年ほど前から、東京慈恵会医科大学皮膚科に受診するようになり、ネオーラルを使うようになり、顔からの滲出液の滲出が抑制されるようになったことで、生活の質はだいぶ改善されました。

 2019年4月からデュピクセントの注射を開始し、ようやく重度のかゆみからも開放されることになりました。

 そこで、今まで情報弱者であったことの反省から、日本アレルギー友の会に入会することにいたしました。皆様よろしくおねがいします。

 

 

 

 

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