アトピーになって良かった。それでも生きて来られて良かった。
私の経験がアトピーで苦しむ人の励みになるかはわからないが、少しでも参考にしてくれたらとても嬉しい。今ではアトピーや不眠の症状も気にならなくなった。
つらい体験を乗り越え、このように思えるようになったHKさんの体験談です。
大阪府 HK(39歳)
お風呂上りのスキンケア
今では誰も私をアトピーだとは思わない。敏感肌なだけで常人と変わらぬ日常生活を送っている。お風呂上がりのスキンケアはいつものルーティンだ。
お風呂を出ると顔にプロペトというワセリンを塗る。顔にステロイドは使わない。かゆみが強いときはプロトピックを使う。最近では顔にプロトピックを使うこともない。ワセリンだけで顔は良い状態だ。
顔以外には適切にステロイドも使用する。かゆみが弱い時は、ワセリン、プロトピックを使用して次にステロイドを使用するまでの間隔を空ける。かゆみが強い時は、ステロイドを使用してやめて、またステロイドを使用する。これを何度も繰り返す。
12月の火曜日 突然の発症
私がアトピーを発症したのは、15歳になったばかりの中学3年生だ。12月の何日かは覚えてないけど、火曜日だったことは今でもはっきり覚えている。
朝起きて、鏡を見ると顔がパンパンに赤く腫れ上がっていた。目を開けるのもつらい。
「なんじゃこりゃ⁉」思春期まっさかり、高校受験を控えた時期、私は人生奈落の底へ突き落とされた。
前兆はあった。耳たぶが切れてかゆかったり、頬が赤くかゆくなったりと。単なる湿疹だと思い、ステロイド外用剤で治療を行っていた。一向に状態は回復せず、数か月経過した朝の出来事だった。
体全体にアトピーは拡がった。顔は眉毛がなくなるほど、ジュクジュク状態、首はかきむしって血だらけ、乳首も服がこすれて炎症を起こす。頭皮にまで湿疹はでてきた。まともな皮膚はないくらい全身がアトピーだらけ。かゆみで眠れず軍手をつけて寝ていた。起きると軍手が血だらけという毎日。何とか受けた高校受験もかゆみで仕方がなかったことを覚えている。
アトピーが友達の高校生活
高校へ進学してから週に一度、午前中に通院して学校へ行く日々が続いた。人の視線が痛い。目の周りが膿んでいるので、通り過ぎる人が顔をじっと見てくる。体育の時間が億劫だった。堂々と着替えられる人がどれだけ羨ましかったかわからない。半袖になって、ただれた腕や首を周りに見られることが嫌だった。
周りにバレないように顔にワセリンを塗る。朝、家を出る前に顔に塗ったワセリンが放課後まで乾燥に耐え切れず、顔がかゆみと痛みでたまらない。一時は網膜剝離になる可能性もあった。
クラスメイトは容姿で判断する。いじめにもあった。学校へ行っても友達らしい友達は一人もいない。先生も「がんばろう!」の一言。帰宅してからは親と毎日のようにケンカ。食事の最中に食器をブン投げたこともある。死ぬ度胸もないくせに、夜中に台所から包丁を取り出して、手首を切ろうとしたこともあった。
脱ステロイド療法で悪化 そして治療方法の確立
何でこんなことになったのか。当時ステロイドを使用してやめるとリバウンドという副作用が起こり、アトピーが悪化するという内容の報道があった。そのためステロイドに対する恐怖感が強く、数年間は民間療法で治療した。脱ステロイド療法、親にはお金をいくら払わせたかわからない。生きていることが申し訳なかった。いろいろ試したが、何にも変わらなかった。結局ステロイド療法に戻り、そこから少しずつ状態が改善した。その頃には「ステロイドは正しく使用すれば最善の治療薬」なんて記事も目にした。マスコミなんて適当だなと心底思った。
「アトピーを1日5分でもいいから忘れろ」ということを母親からよく言われた。
高校時代はいいことなんて一つもなかったが、好きなことをする努力はしていた気がする。好きなことをしているときはアトピーも忘れる。気にしている限りは治らない。気にしなくなると治る。これがたどり着いた治療方法だった。
初めての青春 そして社会へ
高校を卒業してからは短大の通信教育を受けながら大学へ編入することを目指した。
このころプロトピックという薬が開発された。確か平成11年に発売されたと思う。目の周りに基本ステロイドは使えないが、ステロイドでないため、顔に使用することができるしステロイド並に効果のある薬だった。しかし、塗布部分が火照るという副作用もあった。大学時代はプロトピックやステロイドを使用して、比較的アトピーをコントロールすることができたので普通の大学生活を送ることができた。私にとって初めての青春だった。
大学卒業後、就職して一人暮らしをすることになった。勤務先の工場では刺激の強い防錆油を使用しており、これにアレルギー反応を起こしたのか、アトピーが悪化した。顔を含む体全体にじんましんがでてきた。顔に赤外線を照射する治療をするため忙しい合間をぬって通院する生活が始まる。
最初はかゆみ止めの薬を飲んでいても仕事中にじんましんが出て、かゆくて仕事が手につかなかったが、だんだんと症状が改善された。
20代後半には彼女もできて、アトピーが女性関係には不利であるというコンプレックスを抱えていたが、それも受け入れてくれるなら、大した問題ではなかったのだと気づいた。
人生の転機
その後、結婚して子どもにも恵まれ、この頃になるとアトピーが悪化するということはなくなった。ある日勤務先の工場が突然移転することになった。会社は移転先に来れない人は辞めてもらってかまわないという態度。一生勤め上げようという気持ちだったのに、会社から必要とされていない人材だと言われている気がした。
通勤できる場所でないため仕方なく転職先を探すことになる。幸いにも転職先は見つかった。小さい会社だが経験を活かせる仕事だ。早く出世して、収入を上げたい。上を目指したい。その一心だった。
その頃から、家族を含め自分も体調を崩すようになる。それがやっと治まった頃、急に眠れなくなった。不眠症になってしまったのだ。あれほど状態が良かったアトピーが悪化した。心もどんどん萎えていく。パニック障害みたいな発作も出るようになった。それでも、家族を養わなければならないという思いがますます自分を追い詰めた。
人生は蒔いた種のとおり花が咲く
このどん底から私を救ってくれたきっかけは、「中村天風」という人の本との出逢いだ。
この出逢いは私のこれまでの人生観を変えた。「人間は力の結晶だ」「何も起きない人生などない。何が起きても乗り越える力をすべて人間は生まれながらに与えられている」力強い言葉が私を変えていく。
今までアトピーになって良かったなんて思えなかったが、「人生は蒔いた種のとおり花が咲く」という言葉を目にしたとき、私はアトピーになる種をまいていたのだと思った。なるべくして自分はそうなった。成長するために、さらにその経験を経て人の役に立つために、病は与えられた恵みなのだとさえ思うようになった。
アトピーになって良かった。それでも生きて来られて良かった。
私の経験がアトピーで苦しむ人の励みになるかはわからないが、少しでも参考にしてくれたらとても嬉しい。今ではアトピーや不眠の症状も気にならなくなった。
むしろ、前より元気になった感すらある。そして、「人生80点あれば上出来かな」、「働く場所があって、帰ったらかわいい嫁さんと子どもがいる俺は幸せ者だな」なんて、今の自分がどれだけ恵まれているかということに気づくように、上を目指さず、下に根を張る生き方を心がけている。
今年で40歳になる。平均寿命からしたら、ちょうど折り返し地点に着く頃だと思う。これから先何も起きない人生なんてありえないし、時代はコロナ禍の中だ。コロナが終息しても、生きている限り何かが起きるだろう。それでも、苦しみすら楽しむ気概を持って、勇気一番、正々堂々とこの人生を生きようと思っている。