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小児ぜんそく体験記:アレルギーと生きるために

小児ぜんそく体験記:アレルギーと生きるために

あおぞら387号(平成16年2月1日発行)でお母様が息子さんの喘息体験記を書いてくださってから約10年、小児ぜんそくで苦しんだ当時の心境を25歳になった息子さん自身が書いてくれました。 

  (千葉県 T・S)

 

・はじめに~薬と生きる~

 今、自分は4つのアレルギーを患っています。喘息・アレルギー性鼻炎・アトピー性皮膚炎・アレルギー性結膜炎です。その中でも特にひどいのが喘息でした。25歳になった今でも朝晩キュバールなどの薬を使い続けています。基本的には吸入薬で生活が出来ていますが年間に何度か内服薬を使用しています。時期としては季節の変わり目に風邪をひいてしまうとそのまま喘息を併発してしまい、喘息の薬も飲むようにしています。そこまで対処をすれば体調を崩している期間は少し長いものの一般の方と大差ない生活を送る事が出来ています。

 しかしここまで安定するまでには多少の苦労や厄介なことがありました。そして今までアレルギーと付き合ってきて最も大切だと感じたのは「自分で病気ついて学び、自らの考えを持った上で対応すること」でした。これが25年間病気と共に生きてきた中で学んだことでした。

これまで~25年間の生き方~

・幼少期から小学校~死への認識~

小さかった頃は入退院を繰り返していました。その間に何度か入院する病院も変わりました。当時は理由まで良く分かっていませんでしたが、母親が少しでもいい病院を探してくれていたようです。

小学校に入るまで印象に残っているものは、病院の天井と点滴の機材のイメージがほとんどです。幼稚園に通ってはいたのですがほとんど印象に残っていません。小学校に行くようになっても2度ほど入院しています。この入院生活でとても印象に残っている事が3つあります。

1つは点滴が嫌でたまらなかった事。当時の看護師さんには沢山迷惑をかけたと思います。今でも複数人の看護師さんに押さえられながら点滴を打ったことを覚えています。

2つ目はご飯がおいしくなさすぎた事。入院した直後は発作で食べられないのでまだ良かったのですが、退院間近のほぼ元気な状態でおいしくない食事は子ども心にとても苦痛でした。

3つ目は確か小学生1・2年生の頃の話ですが、喘息発作で入院した時のことです。当時小児病棟に入院していたため、周りも同年代の子どもばかりでした。入院して数日後発作が落ち着き安定してきたため、自分で色々なことが出来るようなっていました。もちろん周りの子ども達とも話すようになり、隣のベッドの子と特によく話していました。今では名前はもちろん年齢や性別も曖昧で覚えていないのですが、一つだけ強烈に印象に残っている事があります。その子と消灯時間まで話した後、翌朝起きると隣のベッドにいませんでした。今でこそ病気が悪化したから別室に移ったのだとわかりますが、当時の自分にはそこまで考えられず、どんな人でも急に居なくなってしまう事があると初めて思い知りました。

小学校3年以降は入院するほど発作がひどくなることはなくなりました。そのため多少休んだりはするものの学校に通うことが出来ました。その頃に主治医と呼べる医師に出会いました。週1回程度通い、薬の使い方や対処の仕方などを、親にはもちろんまだまだ子どもだった私にも教えてくれました。内容は覚えていませんが子どもの的外れな質問にも丁寧に答えてくれた事が印象的でした。それから喘息発作の自己コントロールの方法を教えてもらうようになりました。

とはいえマラソン大会ではビリばっかり・体育もまともに出来る物が少なく馬鹿にされることも多くありました。そして当然いじめられる事もありました。多くの事がありましたが中学に入るころにはなんとか自分で喘息をコントロールできるようになってきました。

・中学~医師の死去~

 その後中学に入るとステロイド薬の吸入を行っていればほぼ発作が起こらない状態になり、長距離を走ったりしなければ発作を急におこすこともなくなりました。このころ持病によって日常生活を脅かされることはほとんどありませんでした。病院に行く回数は年々減っていき、月1回程度になった頃ある出来事が起きました。主治医の死去でした。中学3年生の時です。母親からその話を聞き、お葬式に参列しました。その時はもちろん悲しかった事もありますが、初めて認識したことがあります。それは今頼っている人がいなくなってしまうという不安感でした。それまでは困ったら親や主治医に聞けば発作が起きても何とかできると考えていました。しかしその考えがいかに甘く、自分の病気と向き合っていないかを痛感させる出来事となりました。主治医の死後、いままでの誰かから言われた事をそのままやるのではなく、自分の力で情報を得て自ら考えて病気に向き合うことの大切さを知りました。

・高校~将来について~

 高校生になったときには朝晩薬を吸入していれば発作を起こすことはほとんどなくなり、発作を起こすときは風邪との併発の場合ぐらいでした。高校生の時点で喘息はほぼコントロール出来るようになりました。

 この当時放送部に入部していました。大変な部活動ではありませんが、年2回大会提出用に番組を制作していました。この番組制作ではドキュメンタリー番組を作る機会が多くありました。まず題材を探し、リサーチを行ったうえで企画書を作成します。そして仲間と話し合いして、決定したら番組を制作します。

この活動を行いながら感じたことは自分の主張を持つ大切さでした。他人から得た知識を鵜呑みにしていてはいつまでも他人に頼りきりになってしまいます。得た知識を自分なりに理解をして、自らの考えにまとめ、主張出来るようにならなければいけないと感じました。部活動の経験により、自分の意見を持つことの大切さを学びました。

さらに自分の主張を持つことで他人と話し合うことが出来、より多くの知識を得ることにも繋がる事を知ることが出来ました。

・大学~社会人へ~

 大学に入ってもマスメディア学科に入り、サークルや講義などで番組制作を続けていました。さらに一人暮らしをしてアルバイトをしても、持病による支障をほとんど感じずに生活を送る事が出来ていました。

そして番組を何本も作成していくうちにマスメディアに関わる仕事がしたいと思うようになりました。しかしマスメディアに関わるという事はどうしてもハードな業種が多く自分の持病が心配でした。それでも一度きりの人生を持病のせいにしてやりもせずに諦めるのはもったいないと思い、マスメディア関係の仕事を志望することを決意しました。

 就職活動自体はリーマンショック直後だった事もあり大変でしたが、希望のメディアに関わる仕事に就く事が出来ました。

・今~社会人として~

 今社会人3年目、もうすぐ4年目となり少しは責任ある業務を任せて貰えるようになってきました。

 今では朝晩に薬を使えば仕事に支障なく生活する事が出来ています。就職してから無遅刻無欠勤で働けているのは医学の進歩も大きいと思いますが、自分でコントロールできるようなった成果だと思います。

 今の仕事はシフト勤務で土日も関係なく深夜勤務もあります。基本的に立ちっぱなしで動きまわる事が多い仕事です。さらに多くの人が関わっているのでコミュニケーションが欠かせません。毎日仕事で時間に追われる中、様々な情報から自分の意見をまとめて、他者とのコミュニケーションを図っています。これは今までの経験の成果だと思っています。

 これまで喘息などのアレルギー症状によって苦しめられる事もありました。しかしその中で、自分の持病と向き合う術を学びました。その事が仕事をしていく上で役立っています。持病があるという事は悪い事ばかりではなく向き合い方で良い事も見つけられると思っています。

・自分で対処していけるように

 アレルギーと付き合って学んだことは、どんなことでも自分で知識を得て理解をし、自らの判断で行動・対処を行うことの大切さでした。もちろん医師の指示に従うことも大切です。特に薬の扱い方に関して薬剤師さんの指示を絶対に守るべきだと思います。しかし医師や薬に頼り切るのではなく、自己の判断で病気を悪化させないことが大切だと考えています。どんな行動が病気を悪化させ、薬を使う以外でどんな方法が症状を軽減してくれるかなどを患者自身で考え、自分で行えることは実際に行動してみる事が必要だと感じています。

・おわりに

 これを読んでいる方々はアレルギーに何かしらの形で関わりがあると思います。いままで書いていることはあくまでも私自身の経験を元に書いている事ですので参考にならないかもしれません。ただ、読んでくださった方の中に喘息などのアレルギーを持ったお子さんがいる方には一つだけお願いがあります。症状の程度の差もあると思いますがアレルギーの事を教えてあげてください。アレルギーは現代医学では完治が難しいとされています。だからこそ自分アレルギーに対し、理解をして対処できるようになることが大切だと思います。

 

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