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アトピー性皮膚炎体験記:脱ステを経て、「合格」を手に入れるまで

『脱ステを経て、「合格」を手に入れるまで』

東京都 真優 (40代)

 

・アトピー発症

私は小学校の頃まで、岡山県倉敷市の美観地区という長閑で美しい街で、育ちました。中学からは、念願だった大阪の学校へ入学する為、親元を離れて、大阪の祖父母の家から学校へ通いました。今では亡き祖父母なしでは、アトピー闘病記は語れません。将来の夢は「スチュワーデスになりたい!」ごくごく普通の女子中学生でした。

私がアトピーを発症したのは、1995年阪神大震災の数ヶ月後です。岡山へ帰省途中、交通機関が神戸市内は復旧しておらず、途中下車しました。幼心にも、震災の様子を目に焼き付けておこうと、街を歩きました。地元の方々は、建物倒壊の粉塵から身を守る為、特殊なマスクを装着されていました。それに対し、自身は全く無頓着であった事は鮮明に覚えております。

実家に到着した翌朝。目覚めると、顔の辺りがチクチクし違和感を感じました。恐る恐る鏡を見ると、首から上が真っ赤に腫れ、驚愕しました。しかし、まだその時は安易に考えていました。医師の診断は、神戸で大量の埃を吸ったのが原因ではないかとの事。

まだアトピーと診断はされていませんでした。まさか自分が、出口の見えない、長くて暗いトンネルの入り口に、立たされているとは、想像すらしておりませんでした。

 

・胸を張りなさい!!

高校時代はアトピーに左右される日々。ステロイドを塗って、それを止めると、ぶり返すの繰り返し。首から上の皮膚は厚くなり、火傷をしたように赤く、首は掻き傷で痛くて

動かすのが一苦労でした。病院も転々とし、ついに良薬に出会えます。飲むと綺麗になる魔法の薬です。みるみるうちに赤みが消え、家族は大喜びでした。その薬を徐々に減らしていくのですが、(後々ステロイド内服薬と知ります。)減らした時にリバウンドし、症状は酷くなる一方。制服のウール生地が肌に擦れると痛く、祖母に綿の裏地を縫い付けてもらいました。

また行事の日に限って悪化し、記念写真はいつも伏し目がち。周りの友人は青春を謳歌していて、自分とのギャップに気持ちが沈みがちになりました。人目も気になる年頃。

そのような時、祖母からの一喝が、「なんも卑下することない!胸を張って!顔をあげて!」当時は悲観的に捉えましたが、今ではこの言葉を深く理解できます。孫を預かるだけでも大変なのに、随分と苦労をかけました。

ある日学校で胸の内を話した時、私のただれた腕をさすって励ましてくれた友人、いつも「今どこが赤くなってる?」攻撃に答えてくれた友人、アトピーを勉強して下さった友人のお母様(大阪の人情味のあるおばちゃんでした)、周りの方には大変恵まれました。

そして修学旅行で撮ったスチュワーデスさんとの写真は、いつも治療の励みでした。

私もこのようなきめ細やかな気配りのできる女性になりたい、ついに私は当時話題になっていた、脱ステロイドに走るのです。そして根本治療を目指し、入院を決意しました。

 

・脱ステ開始

高校3年生、受験勉強をしながらでした。入院当日病室にて、祖母が甲斐甲斐しく私の世話をしていると「自立せなアトピーは治らへんで!」と声がしました。その方が後々、私の同志となるHさん。裏表がなく、信頼できる方でした。

入院生活では、人目を気にする必要はなく、患者同士打ち解け合い、安堵できた日々でした。反面、現実に戻るのがとても怖かった。将来の夢を打ち明けた時、辛い経験を何十年と味わっている大先輩からは、心配の声が挙がりました。「スチュワーデスはアトピーには大敵の職業や。不規則な仕事で乾燥はするし、首はスカーフで隠せるけど、ストッキングは履くと痛い」と Hさん。離脱症状は意外にも軽く済み、家族は喜んでおりました。

しかし私の先行きは暗く、どこか空虚感を感じながらの退院でした。

そして大学生活が始まり、ホッとしたのも束の間、人生で最も過酷な日々が待ち受けておりました。

 

・壮絶な大学時代

夏休み、症状が一気に全身に広がり、臀部と脛からの浸出液に悩まされる日々。

「おじいちゃんは戦時中、軍隊にいたから包帯が得意や。」

亜鉛華軟膏を塗り、ガーゼを当て、包帯を巻く作業は、祖父の日課となりました。恐怖だったのは起床後に包帯を剥がす時、激痛が走り、家族からは落胆のため息が漏れました。二十歳の頃、合併症と言われる白内障と、網膜裂孔を発症しました。闘病中の父を支えていた母が、「代わってあげたい」と嘆きました。先は暗く、夢、結婚、子供、全て諦めなくてはいけない不安。アトピーが憎い!何度も心の中で叫びました。

 

・スチュワーデス断念

大学3年生。母は私の体を思い、地元での就職を勧めましたが、どうしても飛行機に携わる仕事をしたくて、地上職を目指します。

その為の学校見学も行き、元スチュワーデスA先生の模擬授業を拝見しました。私は先生のクラスを熱望しましたが、既に定員に達してました。偶然帰り道に先生にお会いし、残念だった事を伝えます。

その夜電話が鳴り、驚く事にA先生でした。

「私の塾生の一期生になりませんか?合格するまでみます!」

先生は既に私の肌に気付かれていたと思います。だからこそ、嬉しい出来事でした。

・アトピーを指摘された面接

A先生の元で、着々と夢への準備が始まり、数年ぶりにCA(名称も変更)募集がでました。私は地上職希望でしたが、力試しに受けるよう勧められました。

1次面接は大成功でしたが、最後に予期せぬ出来事が。面接官が、

「スカーフを取って下さい。アトピーですか?」

頭の中が真っ白でしたが、CAは笑顔、緊急時には冷静さが求められます。精一杯声を振り絞り、「はい」と答えました。終了後、私はスカーフを持ったまま放心状態でした。全受験生からの突き刺さるような視線が、私へ集中しました。

 1週間後の結果は、なんと1次通過でした!!外見ではなく「私」という人間を認めて下さったのです。3次には進めませんでしたが、自信となりました。

 

・CAになりなさい!

 3年生も後期に近付くと、抑えていた気持ちが溢れ、本心はCAになりたい事を、先生方にぶつけました。

「治しなさい!治して絶対CAになるのよ!」

早速、私はHさんの所へ相談に行きました。Hさんは、ステロイド治療を再開され、溌剌とされてました。治療方針を聞き、この治療を実際5年、10年続けられている方々は、現在痒み地獄から解放されたとのこと。私は最後の賭けにでました。しかし、説得しても説得しても、家族は猛反対。当時アルバイトをしていたラジオ局と病院で、治療費を全額稼ぎ、勝手にステロイド治療を再開しました。

 

・ステロイド治療再開

診断は重度。医師からは薬の塗布の仕方、軽い薬に変えるタイミング等、細かい指示がありました。予想以上に早く効果がでましたが、経験上一喜一憂するのはやめ、冷静に向き合いました。結果、振り出しに戻る事なく、緩やかに土台から、健康な肌を取り戻しました。苦しんだ青春時代を、人並み楽しめなかった悔しさを、全て力に変え、勉強に勤しみました。

1年半後、私は友人達に見送られ、長年暮らした大阪を後にしました。ついに念願だった合格を手に入れ、客室乗務員訓練生として、新たな門出を迎えられたのです。無事に訓練を終え、夢のCAとして空の上で働きました。亡き祖父母は私のフライトに同行し、制服姿を見た時は、酷い頃からは想像もつかないと涙しました。最高の孝行ができた瞬間でした。

 

・最後に

闘病から約20年後の現在、結婚もでき、子供にも恵まれました。ステロイド治療に切り替えた事が、私にとって人生の転機となりました。激しい痒みや痛みからの解放、心身共に健やかである当たり前の「今」が幸せだと感じます。私の首には、今も尚、傷跡が残っております。昨今の技術では消せるでしょうが、この傷は支えて下さった方々と私の努力の結晶です。

今苦しんでいらっしゃる方、どうか1人で抱え込まないで下さい。苦しい時は誰かに伝えて、時には人に迷惑をかけても良いのです。皆様が1日でも早く、心穏やかに過ごせます事を心より願っております。

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