症状がひどいときは誰もが何で自分だけがこんなつらいめに遭うのだろうと
気持ちも落ち込みます。
適切な治療で症状が良くなり、心身ともに健康になって
笑顔を取り戻した方々の体験談をご紹介します。
さあ、病気を乗り越えてあなたも笑顔を取り戻しましょう!
H.M(40才代)
【自宅療養から入院】
昨年11月はじめ、同居家族が高熱を出した。この頃、全国で新型コロナの感染が再び増加に転じ、第8波に入りつつあった。検査で家族の陽性が判明した。ワクチンは接種していたが私の症状は微熱とのどの痛みではじまり、すぐに咳と息苦しさが出てぜんそくが悪化した。医師に相談のうえ早々にステロイドの内服を始める。抗原検査は3日続けて陰性。発症4日目でようやく陽性になった。近所の発熱外来を受診すると、治療薬のラゲブリオを処方され飲み始めたが、この日は咳でほとんど眠れなかった。ラゲブリオが効いたのか一時、咳が減るようなときもあったが、発症から7日目に明け方苦しい咳が続いたため、かかりつけの病院の救急外来に駆け込み、ステロイドの点滴をしてもらった。点滴で一時はとても楽になるのだが、またすぐぶり返してしまう。自宅療養で何度か点滴に通い、ステロイドの内服も増やしたが、良くならず、結局入院することになった。
かかりつけの病院に入院できたことは大きな安心であった。数日間、一日に4回、ステロイドの点滴をすることになる。湿った咳はよく出ていたので、本当に治るのだろうか、と不安だった。数年前からバイオ製剤をはじめていて、それ以後ぜんそくの状態がかなり改善しており、風邪を引いてもぜんそくがあまり悪化せずに済んでいた。だが、コロナ感染はぜんそくへの影響という面では、私の場合、ただの風邪と同じではなかった。PCR検査の結果が出て、オミクロン株BA5とのことだった。点滴3日目、医師より「明日から内服に切り替えましょう」との話があった。点滴は副作用の面からもいつまでも続けられるものではないが、咳が減っているという実感はなく、切り替えられるか不安ではあった。
ところが翌朝、痰がらみの咳が減った。コロナのウイルスも徐々に減っていってくれているのだろうか。咳が止まらないのは辛かったので、それが減り、また内服に切り替えることでほっとした。それから退院するまで症状を見ながら、内服の量も減らしていった。
入院したのは、大部屋のコロナ病棟だった。重い防護服に身を包んだ看護師さんがナースコールのたびに駆けつけてくれた。常に感染の不安はあったのだと思う。3度の温かい食事やお茶に、それをつくってくれる人やここまで運んでくれる人がいるのだと知った。これらは自分がこの状況に置かれなければ分からなかった。
【回復へ】
入院して9日目に退院した。退院後も1カ月くらいは咳との格闘は続いた。入院中はほとんど会話することがなかったので感じなかったのだが、しゃべると咳が出て息苦しい。少しの散歩でも息切れがして立ち止まってしまう。しばらくは買い物にも行けなかった。毎日、呼吸の状態を見ながら、少しずつ散歩の時間を増やした。家族とも筆談で会話し、小声で話すように心がけた。仕事も在宅勤務でメール中心の仕事にさせてもらった。退院後の自宅療養中は、回復を早めるためなるべく「しゃべらない」ように努力した。「まだ治らないの?」と言われることもあり、この1カ月は自分としてもとてももどかしく感じた。
そんな状況であったが、日々着実にぜんそくは回復し、また周囲の理解や協力もあり、お正月にはほぼ回復した。幸いなことに咳や息苦しさといった後遺症も以後はなかった。後に主治医から、先生が診ているコロナにかかったかかりつけのぜんそく患者さんで、入院したのは私だけだったと聞いた。言われているように、コロナに感染したときの症状は個人差が大きいのだと思う。感染症法上の扱いが5類になってしばらく経ち、これを書いている7月現在の東京はコロナ前の賑わいに戻りつつある。私自身もマスクを外す場面が増えた。しかし、流行状況に応じて、自分としては感染対策を続けていきたいと思っている。
【生物学的製剤(ゾレア)に出会うまで】
埼玉県 M .F.(31歳)
私は1歳になる前に喘息と診断され、おそらく当時からそれなりに重症だったのだが、最近になるまで重症と自覚することなく約30年過ごしてきた。
幼稚園頃からのことは、なんとなく記憶に残っている。友達の誕生日会に遊びに行ったらネコがいて、アレルギー症状が酷くなりそのまま病院に行く羽目になったり、インフルエンザがきっかけで、長く入院したり。お泊まり保育でも発作を起こし、楽しみにしていたプール遊びに参加できなかった。病院通いの日々で、点滴でも注射でも全く泣かず、薬を嫌がることもないすっかり病院慣れした子供だった。
★小学校時代…
夜中や明け方の発作で、ソファーでうとうとしながら朝を迎え、遅れて学校に向かったことも数知れない。
10歳の誕生日の直前には重篤な発作を経験し、小児慢性特定疾患の認定を受けた。この頃から吸入ステロイドを使うようになったものの、度々コントロール不良となり、経口ステロイドや点滴に頼らざるを得なかった。
幼稚園の頃から喘息に良いと言われて水泳を続けており、高学年になるとタイムを競うコースに在籍していたものの、長く泳ぐと苦しくなってしまい、途中で休ませてもらっていた。
さらにつらかったのは、脊椎の病気のため装具をつけていたのだが、装具で圧迫されているところに喘息発作が重なると苦しさが増すことだった。どうにもならず、保健室で大泣きしたこともあった。
★中学校時代…
中学に上がると通学時間が長くなったためか、学校に着く頃にすでに発作が起こっているという状態が続き、朝の時間を保健室で過ごした時期もあった。
中2の時には登山合宿があったのだが、かなり喘息が悪化していたこともあり、主治医とも相談したが登山ができる状態ではなかった。参加を諦めるしかないと思っていたのだが、登山の間は近くの湿地を散策し、みんなが山頂に着く頃に合わせてリフトで登るのはどうかと学校から提案してもらった。キャンプファイヤーは建物の中から見て楽しみ、夜は養護教諭の先生の部屋で眠った。山頂での集合写真にも一緒に写ることができ、とても嬉しかったことを覚えている。
★高校時代…
中高一貫校でそのまま進学したので環境の変化はほとんどなかった。喘息の状態はあまり変わらず、薬品を使う化学実験や寒い時期の体育では毎回のように発作を起こしており、保健室で落ち着くまで休んでから次の授業に向かうことが日常茶飯事だった。
修学旅行で行った沖縄では、気温差や飛行機の気圧のせいもあってか、夕食前に発作を起こしてしまった。ようやく落ち着いた頃には食事時間は終わっており、誰もいなくなった大広間の隅で、発作が収まるまで付き添ってくれた先生たちと食事をした。思い出すと情けない気持ちになる。
しかし、常に喘息に悩まされながらも、中高時代という大切な時期に周りの友人や先生の理解があったので、心から感謝している。
★大学時代…
理学部に進学した。実験などの授業で忙しい日々だったが、今振り返ってみれば、この頃はいくらか落ち着いていたと思う。サークルやバイトなどもそこそこに楽しむことができた。所属していた研究室の教授も軽い喘息持ちで、各部屋には空気清浄機があったり、実験室の清掃分担で燻煙材などを使うことは免除してもらうなど、理解ある研究室生活だったことも幸運だった。
それでも大学4年時の教育実習では、梅雨という悪条件に疲労が重なって、一気にコントロール不良となってしまった。喘鳴と咳が続き、ステロイド点滴でなんとか乗り切ったのだった。(母校での実習であり、養護教諭の先生を含め、私の喘息のことを知る先生が多かったのは幸いだった。)
★社会人になって…
生まれ育った地を離れて、他県で教員となった。
地元では、総合病院の小児科の先生にずっとお世話になっていたので、引っ越しに伴ってはじめて主治医が変わることになった。今までの病歴をまとめたものを持参して、近所の呼吸器内科のクリニックで治療を続けることになった。
ところが、春は花粉、夏は冷房、秋は台風、冬は冷たい空気…と、相変わらず年間を通じて発作を繰り返していた。しかし、息苦しさなどの症状にはすっかり身体が慣れてしまって、多少の症状があっても動けてしまう。けれども、そこに疲れや風邪などが加わると、急激に悪化する状態になっていた。社会人になるとそうそう休むこともできず、予約外受診を繰り返しながら仕事を続け、さらに悪化することもあった。
修学旅行の引率で秋の日光に行った時にも発作で一睡もできず、翌日は疲労困憊だった。そのような状態になる度に「入院を避けるためには、とりあえずステロイドが必要」と言われ、点滴や経口ステロイドなどで騙し騙し生活していたが、なんとか入院はせずにすんでいたこともあり、仕方ないものだと思っていた。
★変わるきっかけ
神経の病気のために整形外科で手術を受けることになった。整形外科の主治医と麻酔科の先生が喘息のことを気にかけてくださり、挿管での発作を避けるために、全身麻酔から伝達麻酔に変更となった。ところが、鎮静剤で眠っていた私は記憶にないのだが、手術室の寒い室温せいか、手術が始まる前からすでに発作を起こしていたと聞かされた。処置を受けてそのまま手術は無事に終えられたものの、術後も手術箇所の痛みより喘息に苦しんだ。術後に「治療(STEP4)をしていても喘息が今の状態というのは良くない。僕もそんな状態で仕事を続けて、ある時ひどい発作を起こしたんだよ。」というお話があった。実は整形外科の主治医ご自身が、ゾレアを使って治療している重症喘息の患者でもあったのだった。「喘息は死ぬこともあるんだから、しっかり治療をしたほうがいい。」とご自身の喘息の先生を紹介してくださった。
こうしてアレルギー治療で有名な大学病院の専門の先生に診ていただくことになった。検査などを済ませると「正真正銘の重症喘息」と言われ、すぐに生物学的製剤(ゾレア)が開始となった。今までの治療が100%間違っていたわけではないが、ベストな治療ではなかった…とのこと。地元の小児科は「良い先生」としては有名だったが、それなりに酷い症状を成人まで持ち越している時点で、セカンドオピニオンを考えるべきだったのかもしれない。引っ越し先も呼吸器内科であったが、生物学的製剤が話題になることはなくステロイド頼みだった。
★生物学的製剤の治療を始めてから…
新しい治療と出会い、あきらかに調子の良い日は増えて、「苦しくない状態」を自覚することができるようになった。今まで仕方がない、当たり前だと思っていた症状が普通ではなかったことにようやく気づいた。毎月の注射を全く負担に感じないわけではないが、QOLに関してそれを上回る効果を感じている。
もしも手の手術を受けていなかったら…?もしも整形外科の主治医が重症喘息でなかったら…?
これまでのことを振り返ると、もっと早くにできることがあったのではないかと悔やまれるが、過去を悔やんでも仕方ない。「良くなっていますね!でも、もっと良くなるはずです!」という主治医の先生の言葉を励みに、今後はよりよい治療に先生と二人三脚で取り組んでいきたい。患者自身が正しい情報を自ら得ていくことの大切さを改めて感じている。
『病に学び自分と向き合うことで喘息やアレルギー体質を克服』
東京都 E.I 52歳
【発症から一番ひどかった時の状態】
20代前半のある日、突然呼吸困難になり、そこから専門機関で運動誘発性喘息と診断されるまでかなりの時間を要しました。その間、喘息発作や不安からくるパニックや過呼吸、またアレルギー体質で顔や体に帯状疱疹や蕁麻疹をはじめとする様々な皮膚トラブルを発症しました。仕事のストレスも加わり押し潰されそうになる日々、体調とメンタルのアップダウンが激しく心身共に良い時期と悪い時期を繰り返していました。誰かに相談してこの気持ちを話せたら少しは楽になるのに…どこへ行って誰に相談していいのかもわからない…誰にもわかってもらえないもどかしさと苛立ちを一人で抱えていました。
発作が起きるのは必ず寝ている時でヒューヒューゼイゼイの状態になると眠りたくても横になることも出来ず、空が明るくなる頃やっと落着き少しだけ眠り起きて会社に行く状態でした。寝不足と酸欠気味で頭は重く朝から気分はブルー、駅まで少し急いだだけで呼吸が乱れるので電車の中ではハンカチで口元をずっと押さえ呼吸音をまわりの人に気付かれないように目を閉じていました。眠ると発作が起きるかもしれない…今晩は大丈夫かな…という不安が常にあり毎晩夜になり寝るのが恐くて、いっそ眠らずにすむ体なら良いのにとずっと思っていました。また、なんとなく喘息がある自分が恥ずかしいことのように思えて、家族以外には誰にも口外せずひたすら隠して過ごしていました。
【転機、考え方の変化】
吸入薬のおかげでコントロールが可能になり喘息は落ち着き、同時にアレルギーも落ち着いていましたが、30代前半に一ヶ月近く病名のわからない極度の体調不良に見舞われました(起きられないほどの倦怠感とダルさ、微熱、ヘルペス、蕁麻疹、喘息など)。点滴中に少し移動しただけで倒れるほど体力も無く、ベットの上で天井を見つめ涙が勝手に溢れ出ながら「私は何をやってるんだろう…。自分の体は自分で治そう!」と自分自身に決意表明しました。すると翌日、一ヶ月間続いていた微熱が下がりはじめ同時に気持ちも明るくなっていきました。当時の私は自己中心的で病気になったのも全てまわりのせい、自分は何ひとつ悪くない、保険料を払っているんだから病気になったら病院に行けばいい、病気のことも医者任せで言われるがままでした。しかし、自分のこれまでの考え方が間違っていた!と気付いたことが転機となり、自分で調べ直感を信じ、先ずは自然療法で食事を見直し、冷えを取り、呼吸法とヨガを学びました。何度も好転反応がありましたが、根気強く焦らず「頭は間違えても体は間違えないこと」「病気は治すのでなく、病気に学び、生活の改革と心の転回で、体だけでなく運命も健康に巡り合うこと」を知りました。呼吸法を身につけ肺を鍛え、瞑想を生活習慣に取り入れ、今あるがままの自分をそのまま自分自身と向き合えるように日々訓練してきました。最後に喘息の発作が起きたのは13年前(その前は6年前)発作中も救急車の中でも常に自分を俯瞰して意識化して見ることが出来るようになっており、心拍数も脈拍も自分で数えられるほど冷静でいられました。
一生治ることはないと言われた喘息、アレルギーも虚弱体質も自分なりの養生を続けてきたおかげでいつのまにか克服できていました。辛く苦しく大変なときもありましたが、病気になって気付けたことは本当に多く、その経験を経て今の私がいることに感謝しています。
小児喘息を乗り越え、今は大学生になられたH.M.様の体験記です。
神奈川県 H.M. (19歳)
ぜんそくのお子様がいるお母さまの体験談です。同じ立場で悩んでいらっしゃる保護者の方に向けて寄稿して下さいました。
広島県 HS
子供のころから、気管支喘息の闘病を続けてこられたS.I様の体験談です。
東京都 S.I(54歳)
子供のころから気管支喘息とアトピー性皮膚炎の双方を患い、闘病を続けてこられた佐藤様の体験談です。
佐藤一郎(東京都)
苦しいときは、あと何時間で薬が飲める、そんなことばかり考えていました。内服や点滴で、体の中にたくさんの薬を入れていると、本当に良くなるのだろうか、これからどうなってしまうのだろうと泣きそうになりました。風邪が治って咳がおさまっても、常に呼吸が苦しかったです。
このようなつらい体験をされたH.Mさんですが、今は専門医の指導のもと、薬の使い方も覚えて自己管理ができるようなり、特に夏の間は楽な時が増え、吸入薬を忘れそうになるくらい呼吸のことを気にしないことが多くなりました。仕事も以前よりペースを落として再開しました。今は海外旅行に行ける日を楽しみにしていますとのことです。
東京都(42歳)
ぜんそくをパートナーとして人生を歩くことを基本に生活をしてきたことで、現在の私があると思っています。ぜんそくとともに歩んできた私が、相手であるぜんそくとの生活の一端をみなさんへ紹介し、参考にしていただければ幸いです。
宮城県 中川 典雄(71歳)
小児ぜんそく体験記:アレルギーと生きるために
あおぞら387号(平成16年2月1日発行)でお母様が息子さんの喘息体験記を書いてくださってから約10年、小児ぜんそくで苦しんだ当時の心境を25歳になった息子さん自身が書いてくれました。
(千葉県 T・S)
持って生まれた喘息患者だった私は物心ついてから喘息でなかった私を憶えていません。それでもこうしてこの齢まで生きてこられました。ここに拙文ですが、私の喘息体験を書かせて頂きます。
神奈川県 AT(70歳)
58歳でぜんそくを発症した稲葉さん、最初は専門医にかかることができずなかなか良くなることができませんでした。友の会の紹介で家の近くの専門医に通院するようになり、安心して治療をすることができるようになりました。吸入ステロイド薬での治療をはじめ、日常生活で心がけることや薬の使い方などを講演会などで自ら勉強することで良くなっていきました。
(東京都 稲葉 吉治 さん / 64歳男性)
最初はぜんそくを甘く見ていたと振り返る菅野さん。仕事でがんばりすぎ、発作を繰り返してどんどん悪化。それでもハンドネブライザーやステロイドを飲んで仕事をを続けていました。そうするうちにぜんそくも悪化し、ステロイド糖尿病も発症してしまいました。今の主治医に出会い、ぜんそくの治療、糖尿病の治療も変えて良くなっていくまでの体験談です。
(東京都 菅野 祥 さん / 39歳女性)
振向いたときには津波が足元まできていた。ポケットにメプチンを入れて夢中で津波から逃げて命からがら助かった S・Kさん
。ぜんそくを持ちながらの避難所生活などつらい日々を寄稿してくださいました。被災の現状がひしひしと伝わってきます。病気を持つ者として日頃の備えも大切なことを伝えて下さっています。(宮城県気仙沼市 S・Kさん / 67歳女性)
救急車で運ばれて初めて気管支喘息と診断され、自宅でのネブライザーなど治療をするがなかなか良くならず、普段の生活もままならなかったR・Sさん。何とか子育てを続けてきたが、吸入ステロイドと出会ってからは、自分に自信がついてきたそうです。
(北海道 R・Sさん / 女性)
44歳で発症しなかなか薬が合わずに重症化してしまう。ステロイド経口薬を使用せざるを得なくなるが、なんとか抜け出したいと、薬の情報を得て主治医と一緒に自分に合う薬を探す。
自ら積極的に治療していこうと前向きな坂本さんが軽快するまでの道のり。
(神奈川県 坂本直美さん / 女性 / 62才)
幼少期からの喘息でよくならず重積発作を起こして意識不明に。ステロイド吸入を使うようになり軽快してきました。趣味の登山も続け、念願の徒歩での英国横断を達成するまで元気になりました。
(佐藤由弘さん / 男性 / 66才)
幼い頃からの喘息にも負けず、喘息専門医として活躍する久保先生。患者の気持ちがわかる医師として様々な活動をしてきました。自己の治療を振り返ってのメッセージも。
(和歌山県 久保裕さん / 男性)
喘息があると結婚や恋愛に不安を持つ方もいることと思います。病気を持つことの不安を乗り越えてめでたく結婚した佐藤さんからのメッセージです。奥様も喘息の佐藤さん夫妻の2人で支え合いながら生きる喜びが伝わってきます。
(東京都港区 佐藤瑞穂さん / 男性 / 35才)